なっつゴト。

50代のささやかな日常

3.11

10年か…

 

あの日。

いつも通り仕事をしていて

急にふらつきとめまいが同時に来たような感覚に襲われ、

「え!?あたし、やばいじゃん」

と、思っていたら地震だった。

 

震度3くらいは慣れっこの関東住みにも体験した事の無い大きさの揺れ。

 

幸い店の中は大したことなかったが、

恐怖のあまり座り込んだまま立てないお客さん、震えて泣き出すお客さん…

いつものシャレオツな洋楽BGMが緊迫した館内放送に変わり、尋常ではない出来事を伝える。

 

「全員建物の外へ」

お客さんを誘導しつつ、スタッフも外へ。

その時に見た、店の前のエスカレーターの手すり。足元の床が割れて粉々になっているのを見た時、これはすごい地震だったんだ、と知る。

 

幸い館内は大きいけが人などもないようだ。

が、外に出たあとも余震が続く。

誰かがワンセグでニュースをつける。

緊急速報を伝えるアナウンサーがヘルメットをつけてしゃべっている。

こんなの見たの初めてだ。

 

DVがお客さんを誘導してくれ、私たちも社員数人を残して解散になる。

とりあえず電話だ!

携帯は通じない。

公衆電話の列に並ぶ。

 

家と実家の安否確認。

1台しかない公衆電話、

でも皆最小限の会話で切るためか、

15分程度ですぐに回ってきた。

 

 

駅へ。

電車が止まっているのを知らなかった。

幸い近くまで帰れるバスは動いておりとりあえず乗ってみる。

よく考えたら歩いても一駅、大したことは無かったのだが歩く頭は全くなかった。

 

歩くより時間がかかったがバスで帰宅。

夫はしばらく従業員出口で待っていたが出てこないので帰ってきたという。

携帯が通じないから混乱する。

 

我が家は二階の状態が凄かった。

大きい家具こそ倒れなかったが学習机の本やカラーボックスなどの中身は全部床に散乱。足の踏み場もない。そりゃモールの床が割れるくらいなんだから、こんな古い木造なんか揺れ具合は半端ないだろう。

風呂場のタイルや外壁に亀裂が走っていたし。

普段だって二階にいたら「今ので震度3?」くらいだったのだから。

 

高校生だった次男は学校に一泊することになった。車で迎えに行ったのだが全然動かず断念。こういうときは無理に動かない方がいいと知る。

翌日電車は動き無事に帰ってくる。

 

ずっとニュースを見ていたが正直関東の様子ばかりで「津波があったらしい」くらいは見た気がするけれど、あそこまでの状態はその日には知らなかったと思う。

朝になって水浸しの中に点在する家を映す東北の様子に驚いたが、実際はそれが津波によってもたらされ、もっと酷い状態だったのを少しづつニュースで知る。

日本でこんなことが起きるなんて。

 

モールは数日休館になった。立体駐車場はもっとやばくて何ヶ月か修復にかかっていたような気がする。

 

買い物もしばらく混乱していた。

水とか全然買えなかったし、朝早くスーパーに行っても欲しいものがなかったり。

こういうとき「買っておかなきゃ」って思う心理がよくない。しばらく他のもので代用したり、なくてもしのげるものなのに。みんながそうなるからよけい品薄になる。ちょっと待てば普通に流通してくるのに。

そしてそれに踊らされる自分がもっと嫌だ。

 

あの時の東京の不自由さなんて、東北に比べたら屁でもない。

避難所で身内の安否もわからない、いつ家に帰れるのかわからない、そんな状況でも配給の列に整然と並ぶ東北の人の姿に朝からスーパーに走る自分が恥ずかしくなった。

 

あれから備蓄やら買い置きにも気をつけるようになった。

トイレットペーパーなどの紙類、水、インスタント食品、カセットガス、電池…

首都直下地震は確実に来ると言われている。もう少し色々見直さなければ。

 

街は新たな姿に生まれ変わっても

人の喪失感に復興なんてない。

10年経とうが20年経とうが悲しみや心のクサビは絶対に軽くならない。

大変でしたね、

頑張りましたね、

口ではいくらでも言える。

でもその悲しみはその人にしかわからないのよ。

まだ身内が帰らず、避難生活を送る人はごまんといる。

10年なんてなんの区切りにもなりはしない。